空き地と道具
夏の気候がいよいよ始まりだしましたね。 私は今年からでた花粉症が癒えず、いまだ鼻...(2005-05-04)

子どもたちの1mの吹き矢
ようやく春らしくなりましたね。 現在、「森へおいでよ」製作実行委員会では、この映...(2005-04-23)

紙オムツ
ボリビアから無事帰国いたしました。 今日は寒いですね。桜も昨年より開花が遅く、ま...(2005-04-04)

天国と地獄
我が家の近くに浅間山と言う海抜80メートルほどの丘があり、雑木が茂っています。緑...(2005-03-12)

テレビの番組制作・・・
ボクの仕事
即興詩の訴え
地球での暮らし
種火
お正月
仕事って何だろう?

[映画制作への思い] アマゾン源流に注ぎ込む支流のそのまた源流域にはシュアル、アワフン、ワンビサという兄弟のような民族が、自然のど真ん中でほんとうに楽しそうに暮らしています。どれほど楽しいかと言うと、狩に出かけたお父さんたちは、今夜のおかずになる獲物を獲らなけれぱならないのに、果物を見つけては休憩し、おしゃべりをしながら舌鼓を打っているのです。獲物1匹も獲れていないのにですよ…! 
  お母さんたちは小さな子どもを連れて畑に行きます。ユカというお芋の畑ですが、その周りにサトウキビが植えてあります。お芋を掘りながらサトウキビのジュースを飲み、即興で歌をつくり、大きな声で誰かが歌うと、ほかの人たちは笑い転げているのです。
 
村に残った子どもたちは川で泳いだり鬼ごっこをしたり、汗をびっしょりかいて夢中になって遊んでいます。お年寄りは、日陰に坐り森の木の葉やヅタを使ってカゴやホウキを、穏やかな顔をしてゆっくりと編んでいます。子どももお年寄りも時計を持っていないのですが、なぜかおやつの時間には庭に実るグレープフルーツをもぎ取って頬張るのです。もちろん野生のグレープフルーツですから、私たちが口にする甘く改良されたものではありません。昔の夏みかんに似ています。でも小腹が空いたこの時間には大切な栄養補給です。何よりのどの渇きを癒してくれます。
  私は、こうした森の暮らしを眺めながら、こんなことでいいのかなって思うのですが、心は和んでいるのです。私たちの生活の方がはるかに便利で、はるかに…、はるかに…、あとはなんでしょうか…。

 ある日、父親の一人が森の木を倒して狩の道具を作り始めると、男の子たちが集まってきました。父親が作業を続けることができなくなるほど近くにより、出来上がりつつある道具を見て、手で触っています。でも父親は、「邪魔だ!」とは言いません。子どもたちが納得いくまで眺めさせているのです。父親は、この間、待っています。いえ、待っているのではありません。子どもの表情を見て、その子を感じているのです。
  母親がユカと言うお芋の皮をむくときに、刃の長さが1メートルもあるマチェーテと呼ぱれる刀を使います。近くにいた2歳になったぱかりの女の子が、その刀に興味を持ちました。両手で持ち上げるのがやっと。そのことに母親は気がついています。でも、「危ない!」と言って取り上げるようなことはせず、近くで見守っています。どうして取り上げないのか同じように子どもの様子を見ていた父親に尋ねると、「いま、大切なことは、この子がマチェーテに興味を持ったことです。怪我をするかもしれません。いえ、怪我はいつかするでしょう。でも怪我をして血を見て、痛さを知ってマチェーテの使い方を覚えます」父親はそう言いながら、子どもから目を離さず、大きな怪我だけはさせまいと、見つめていました。

  子どもたちの中に、知的障害のある男の子がいました。ある日のこと、村にある大きな池で子どもたちが障害のあるその子に向かって一斉に水をかけていました。動作のゆっくりした子ですから、息ができなくなるのではないかと心配して見ていたら、その子はブクブクと水に潜りました。すると周りの子どもたちが、池のあちこちに目を遣り何かを探すような仕草をするのです。いったい何が起こったのか…不安になりました。しばらくすると、池の向こう側の水面に彼が顔を出し、ゆっくりと大きく息を吸いました。周りの子どもたちは、彼を見つけるとまた水をかけ、するとその子は潜ります。彼は潜水が大得意で、周りの子どもたちと鬼ごっこをしていたのです。もし、おとなが「この子は遅い子」と決め付けていたら、どうだったのでしょう。こんな素敵な鬼ごっこは発見されなかったのではないでしょうか。

 こうした森の暮らしを映画にして、子どもたちに観せてあげたい…おとなたちに観てもらいたい…と思います。できれぱ来年(2005年)の夏休みに…。

※当初2005年の予定でしたが、2006年に延期させていただいています。


  [映画にしたいこと(1)] 実はこの村には名前がありません。そのうえ、村には村長など村を代表する人がいないのです。私は思わず聞いてしまいました。
 「隣村にお使いを頼むときはどうするんですか?」
 すると答えはこうでした。
 「お使いをさせるときは、人に会いに行きますから、人の名前を言います」
 「・・・・・・」。
 私たちの村にはどうして名前がついているのでしょうか・・・?
 まさか最初から郵便配達のためにあるわけじゃないですよね・・・。

 こんどは、
 「村長がいないと、村で何か決めなければならないときは、どうするのですか?」と聞きました。彼らの答えは、
 「みんなで話し合って決める」と言うのです。
 なるほど、何ごとも話し合いで決めることができるなんて、こんなすばらしいことはない・・・と思うのですが、現実にはどうなのでしょう・・・。無理だと思いませんか? そこでもう一度、
 「話し合いで決まらない場合はどうするのですか?」と質問してみました。すると、
 「・・・そのときは話し合いを続ける・・・」と返ってきました。私はしつこく、
 「それでも話し合いで決まらないときがあるじゃないですか・・・」と繰り返しました。
 村人は困った顔をこちらに向けて、
 「・・・話し合いをする以外、どうやって決めるんだ・・・?」と、逆に質問されてしまいました。
 本当に話し合いだけで決められるのなら、それにこしたことはありません。でも、そうでないことが当たり前と受け取っている私のほうが、おかしいのでしょうか?
 いったいこの村では、どう話し合いですべてを解決しているのか、具体的に撮影してみたいのです。聞いた話によると、判断がつかない難題の場合、そのことが子どもたちにとってどうなのか、孫にはどうなのかと、検討していくのだそうです。


 
 
 

[映画にしたいこと(2)] 子どもたちの中に、知的障害を持った男の子がいました。子どもたち同士でバナナの枯葉でボールを作っていたのですが、ほかの子がみんな作り終わっても、まだその子だけが半分も出来上がっていないのです。でも、友だちたちは急かさず、かといって手伝うこともしません。その子のペースで作りあげるまで、近くでボール投げや木登りを楽しんでいます。障害を持った子は、自分のペースを崩さず、ボール作りに集中しています。
 私たちの世界では、とかく、「待つ」という時間を持ちます。待っているという行為は、自分の心の動きをストップするわけですから、待ち時間が長くなるとイライラしてしまいます。でも、周りの子どもたちはイライラしません。どうしてでしょう? 
もしかすると、狩の道具を作っていたお父さんと同じ気持ちなのかもしれません。

 ある日、村にある大きな池で、子どもたちが裸になって泳いでいるところに出会いました。障害を持ったその子に向かってほかの子どもたちが、いっせいに水をかけているではありませんか。動作がゆっくりした子ですから、たちまち息ができなくなるのではないかと心配して見ていたら、その子はブクブクと水に潜りました。すると周りの子どもたちが、池のあちこちに目を遣り、何かを探すような仕草をするのです。いったい何が起こったのか・・・、あの子はどうしたのだろう、潜ったままなのです・・・。死んだらどうするんだ・・・不安になりました。
 5分ぐらい経ったでしょうか、ようやく池の向こう側の水面にスーっと、彼が顔を出したのです。そしてゆっくりと大きく息を吸いました。周りの子どもたちは、彼を見つけるとまた近づいていき水をかけます。するとまたその子は潜ります。
彼は潜水が大得意で、5分ぐらい潜っても平気だったのです。潜った彼がいつどこに顔を出すか、周りの子どもたちと鬼ごっこをしていたのです。動作がゆっくりしている子なのに、水の中では別人になるのでしょうか・・・。
 人には必ず得意とするものがあるものです。それを見つけるのは、自分であったりお父さんやお母さんだったり、友だちかもしれません。でももし、周りの人が「この子は遅い子」と決め付けていたら、どうだったのでしょう。こんな素敵な鬼ごっこは発見されなかったのではないでしょうか。
 映画を見る人たちに、友だちとのあり方を、もう一度考えてもらえたら・・・、と思いました。



 
  [映画にしたいこと(3)]  ある日、お父さんたちが狩に行くと、前の日に仕掛けた罠にテンジクネズミの子どもがかかっていました。このネズミは、おとなになると秋田犬ぐらいの大きさになりますが、いまは生まれて間もない子猫ぐらいです。お父さんたちは罠からはずすと、大事そうにポシェットにしまいました。
 村に帰ると一人の若いお父さんがそのテンジクネズミの子を引き取りました。
 若いお父さんの家の夕食のおかずになるのかと思い、カメラを構えていたのですが、一向に料理しようとはしません。逆にテンジクネズミの子に、お芋を食べさせているのです。不思議に思って尋ねると、
 「大きく育ててから食べる」と教えてくれました。
 命は尊いものです。小さな子どものうちに食べても、大きく育ててから食べても、同じひとつの命です。たとえば5人家族がこのテンジクネズミの子をおかずにご飯を食べようとしたら3匹の命が必要になりますが、大きく育てば二日に分けて食べられるでしょう。 
 森にある限られた命を絶やさない工夫として、この森の人たちは、ひとつの命をより多くの人で分かつことを習慣にして生きてきたのです。

 私たちは肉を買うとき、何グラムとか量は意識しますが、命を意識しません。自然の循環の法則を守って暮らす彼らは、肉の量に命の数を加えて数えるのです。
 私たちはいま食糧難の時代が来ることを恐れています。でも、スーパーに買い物に行くと魚売り場で、小さなアジが売られています。肉売り場には、若鶏の肉、子牛の肉などもあります。
 私たちも「命の数で数える」方法を取り入れてみてはどうなのでしょうか。
 例えば、だしをとるときに煮干を使います。あれはイワシの稚魚です。一回だしをとるのに10匹ぐらいの命を使うことになります。でも大人になったイワシで煮干を作れば、1匹の命で2、3回だしをとることができるようになるでしょう。そうすると海にイワシが増えます。ということはイワシを餌にするマグロが増えることになります。すると日本人が大好きなマグロが安くなるかもしれません。煮干はイワシの稚魚のほうが、成長したイワシで作る煮干よりだしがよく出るのかもしれません。でも、大人になったイワシをそのまま食べることもできるし、マグロの量が増えるのです。この方がいいんじゃないですか? 

 一月後、若いお父さんの家に行くと、テンジクネズミの子は家族の一員のように家の中を走り回っていました。そしてお母さんが畑に行くとき、そのネズミの子がついていくではありませんか! イヌの散歩のように鎖でつないだりしていません。放し飼いのままです。テンジクネズミの子は、お母さんの足元を行ったり来たり、外に出るのがうれしそうに走り回っているのです。
 わずか一月で、どうして野生の生き物が家畜と同じようになついてしまうのか、不思議でなりません。もしかすると動物たちとの接触の仕方が根本的に違うのではないかと思いながら、彼らと生活をともにしていると、ある日、鹿の子どもが罠にかかったのです。狩人4人は、その子を抱いて家に帰ってきました。子どもたちは大騒ぎです。
 私は、鹿のための家畜小屋を建て、育てるのだろうと思ったのですが、なんと、家の中で、子どもたちと一緒に育てるのです。文字通り寝食を共にすることで、動物もなつくのが早いのかもしれません。
 残念ながらこの鹿の子には逃げられてしまい、なつくまで見ることができませんでした。でもわずか数日のことでしたが、あのときの子どもたちの輝きようを、経済社会の人たちにぜひ見せてあげたいと思いました。

 
     

 

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