[映画制作への思い] アマゾン源流に注ぎ込む支流のそのまた源流域にはシュアル、アワフン、ワンビサという兄弟のような民族が、自然のど真ん中でほんとうに楽しそうに暮らしています。どれほど楽しいかと言うと、狩に出かけたお父さんたちは、今夜のおかずになる獲物を獲らなけれぱならないのに、果物を見つけては休憩し、おしゃべりをしながら舌鼓を打っているのです。獲物1匹も獲れていないのにですよ…!
お母さんたちは小さな子どもを連れて畑に行きます。ユカというお芋の畑ですが、その周りにサトウキビが植えてあります。お芋を掘りながらサトウキビのジュースを飲み、即興で歌をつくり、大きな声で誰かが歌うと、ほかの人たちは笑い転げているのです。
村に残った子どもたちは川で泳いだり鬼ごっこをしたり、汗をびっしょりかいて夢中になって遊んでいます。お年寄りは、日陰に坐り森の木の葉やヅタを使ってカゴやホウキを、穏やかな顔をしてゆっくりと編んでいます。子どももお年寄りも時計を持っていないのですが、なぜかおやつの時間には庭に実るグレープフルーツをもぎ取って頬張るのです。もちろん野生のグレープフルーツですから、私たちが口にする甘く改良されたものではありません。昔の夏みかんに似ています。でも小腹が空いたこの時間には大切な栄養補給です。何よりのどの渇きを癒してくれます。
私は、こうした森の暮らしを眺めながら、こんなことでいいのかなって思うのですが、心は和んでいるのです。私たちの生活の方がはるかに便利で、はるかに…、はるかに…、あとはなんでしょうか…。
ある日、父親の一人が森の木を倒して狩の道具を作り始めると、男の子たちが集まってきました。父親が作業を続けることができなくなるほど近くにより、出来上がりつつある道具を見て、手で触っています。でも父親は、「邪魔だ!」とは言いません。子どもたちが納得いくまで眺めさせているのです。父親は、この間、待っています。いえ、待っているのではありません。子どもの表情を見て、その子を感じているのです。
母親がユカと言うお芋の皮をむくときに、刃の長さが1メートルもあるマチェーテと呼ぱれる刀を使います。近くにいた2歳になったぱかりの女の子が、その刀に興味を持ちました。両手で持ち上げるのがやっと。そのことに母親は気がついています。でも、「危ない!」と言って取り上げるようなことはせず、近くで見守っています。どうして取り上げないのか同じように子どもの様子を見ていた父親に尋ねると、「いま、大切なことは、この子がマチェーテに興味を持ったことです。怪我をするかもしれません。いえ、怪我はいつかするでしょう。でも怪我をして血を見て、痛さを知ってマチェーテの使い方を覚えます」父親はそう言いながら、子どもから目を離さず、大きな怪我だけはさせまいと、見つめていました。
子どもたちの中に、知的障害のある男の子がいました。ある日のこと、村にある大きな池で子どもたちが障害のあるその子に向かって一斉に水をかけていました。動作のゆっくりした子ですから、息ができなくなるのではないかと心配して見ていたら、その子はブクブクと水に潜りました。すると周りの子どもたちが、池のあちこちに目を遣り何かを探すような仕草をするのです。いったい何が起こったのか…不安になりました。しばらくすると、池の向こう側の水面に彼が顔を出し、ゆっくりと大きく息を吸いました。周りの子どもたちは、彼を見つけるとまた水をかけ、するとその子は潜ります。彼は潜水が大得意で、周りの子どもたちと鬼ごっこをしていたのです。もし、おとなが「この子は遅い子」と決め付けていたら、どうだったのでしょう。こんな素敵な鬼ごっこは発見されなかったのではないでしょうか。
こうした森の暮らしを映画にして、子どもたちに観せてあげたい…おとなたちに観てもらいたい…と思います。できれぱ来年(2005年)の夏休みに…。
※当初2005年の予定でしたが、2006年に延期させていただいています。